日本初のマンガ同人誌というものが何かに関してははっきりとは分からない。恐らく昭和20年代後半頃頃の肉筆回覧誌が最初だろうと思われる。 文芸系の同人誌が明治時代から存在することを考えれば、マンガ系同人誌は随分とスタートが遅い。それはマンガ自体が一般に注目されるのが手塚以降の戦後であったことと、文芸系は文字主体であり、活字印刷が可能だったことに対し、マンガは絵が主体なので印刷そのものがコスト高であったためだと思う。 そんなわけで昭和20年台の極初期の同人誌というのは肉筆回覧誌が主体でった。肉筆回覧誌というのは、マンガの原稿自体を雑誌のような体裁にまとめ回覧板よろしく会員間に郵送で送り合う形式のものである。つまり複製は作られずに基本1部のみである。 昭和30年台になっても文字主体の印刷なら、活字印刷による少部数発行やもっと少数ならばガリ版刷りという印刷も可能ではあったが、絵主体のマンガではオフセット印刷という手段しか存在しなかった。現在主流のトナー式複写機も技術的には存在したがほとんど普及はしていなかった。 そんな頃に一般に普及しだしたのが、ジアゾ式複写機である。通称青焼きと呼ばれた複写機だ。トナー式のように反射式ではなく透過式のため原稿自体が光を透過できる薄目のものである必要があったが、面倒な工程を踏まずに絵をそのまま複写できる画期的な印刷方式だった。 そのため1960年台〜1970年台にかけて、高額なオフセット印刷の同人誌と並行して、少部数の青焼き同人誌というものが出現した。1980年台になるとトナー式コピー機が一般に普及しだすので、青焼きコピー誌はほぼ無くなります。 今回紹介する3冊の内、2冊はそんな時代の青焼きコピー誌です。 まず1冊目。 『J3コピー誌 1号 流星』 B5サイズ 青焼き 92ページ クリップ留め 発行元:J3クラブ 発行責任者 渚章(ナギサアキラ) 1970年4月15日発行 目次 山田ミネコ:表紙、裏表紙、巻末イラスト こむろしげこ(小室しげ子)「流星」 すぎもとちづこ「恋びと」 かわさきまさふみ「流れ星」 田中もさく「0=∞」 ナギサアキラ「われらいんべえだあ」 田代明美「流星にように…」 S.KOYAMA「流星」 山本あきら「流れ星」 土屋ススム「詩の貧困」 大竹尚之「女」 中鉢憲二郎「春」、「流れ星」
J3というクラブは、田中もさく(後に田中モサク)と渚章(後にナギサアキラ)の2名によって発足した同人クラブのようです。色々なゲストを引き入れて運営していたようで、当時の主要な同人と結構な接点があったようです。 ちなみに”J3”とは、ジュニア・ジャンパーズ・ジャーナルの略だそうです。 お次も青焼きコピー誌 『破壊 1号』 B5サイズ 青焼き 112ページ 発行元:オリオン漫画研究会 (J3の女子部) 刊期不明 (内部の記載から前掲『流星』の少し前に発行された模様。1969年末か70年頭頃) 目次 さとうとみこ「白い熱」 かわまちこ「精神分裂症の詩」 西川ひろこ「どうして? どうして?」 ハッスルゆうこ「香奈子」 安井尚志「おそれ」 大石ミズエ「妖精」 鈴木光明「幽霊は出たか!?」 小室しげ子「ママの風船」 ものぐさ太郎「テストへの序曲」 公宮アイ「Love
Child」
こちらのオリオン漫画研究会は、前掲のJ3の女子部という下部組織だったようです。鈴木光明は当然ながら同人参加ではなく、協力者として参加しております。
最後は「J3会員紹介誌」。 B5オフセット 16ページ 1973年発行 1973年時点での会員は20名。 今井薫(いまいかおる)・梅田孝典・渚まひろ・金矢良一・ボネ鏑木・鈴木龍平・田尾美野留・田中茂・田中久子・中鉢憲二郎・土屋進・中島詠子・小泉英里砂・長谷川隆・原田君子・原友典・早瀬淳・ふじもり久・宮道不二男・山田美根子(山田ミネコ)等 いまいかおる、山田ミネコ辺りのメジャーになったマンガ家以外にも、ボネ鏑木、土屋進、早瀬淳、ふじもり久、田中茂(田中モサク)等のマンガ家として活躍した名前が見受けられる。マンガ家以外にも小泉英里砂、原友典などのイラストレータや編集関係の名前が連なっている。 J3クラブそのものは、あまりメジャーな同人には成れなかったが、色々なサークルとの交流があったようである。 鈴木光明率いる「三日月会」、和田慎二等が所属していた「グループANTI」、若木書房系の「アトリエ赤と黒」等、広く接点を持っていた。 きっと鈴木光明の親交絡みや1970年台の全日本漫画大会、少女漫画フェスティバルの開催などの支援活動に参加していたのが功を奏していたのだろう。 J3の活動期間は1967年ころから1973年ころまでと推測している。漫画同人もまだ黎明期で、資料なんかも殆ど無い時代なので、かなり憶測はいっておりますが。 |