2016年7月1日、巴里夫先生が逝去された。
ここで巴先生の業績を書き連ねることは避けたいと思う。それに関してはわたしよりも適任者が幾らでもいるだろうし、この紙面で書ききれるものでも無い。なので、わずかな期間では有りましたが巴先生との出会いと交流の経緯を書き、追悼の代わりとさせて頂きたいと思います。
わたしは巴先生と最初にお会いしたのが2011年だと長いこと思い込んでいたのだが、よくよく記憶の底をさらってみるとその8年も前に既に会っていることに気がついた。
2003年12月23日、神保町において貸本マンガ史研究主催の”桜井昌一さんを偲ぶ会”が開催された。忘年会もかねている会で、貸本漫画で執筆した多くの漫画家たちが出席していた。ざっと挙げると、水木しげる氏、朝丘光志氏、みやわき心太郎氏、石原はるひこ氏、下元克己氏、辰巳ヨシヒロ氏。そんな中に巴里夫先生もいらっしゃったが、残念なことにその時会話を交わした記憶は無い。
次にお会いしたのは2006年4月14日に開催された、ポプラ社「貸本漫画RETURNS」の出版記念パーティであった。パーティは四谷四丁目のポプラ社にて行われた。
この時も多くのマンガ関係者が出席していた。把握した限りだが 辰巳ヨシヒロ氏、巴里夫氏、林静一氏、池上遼一氏、石川球太氏、みやわき心太郎氏、三橋乙椰氏、水島新司氏、ビッグ錠(佃竜二)氏の面々がおられた。
パーティ会場内が禁煙だったので、喫煙者たちは会場のスピーチそっちのけで喫煙所に群がり談笑していたことを思い出した。そんな中の一人に巴里夫先生もいらっしゃった。
写真は左から巴里夫氏、米沢嘉博氏、みやわき心太郎氏、内記稔夫氏。奇しくもみなさん鬼籍に入られております。
翌日が仕事だったため、2次会には出席せずパーティ終了とともに帰路についたが、ポプラ社から地下鉄四谷三丁目駅までの道中、巴里夫先生と米沢嘉博さんと一緒なった。会話の詳細はもう失念してしまったが道すがら3人で少女漫画のことを楽しく語り合ったことだけは記憶している。
巴先生と比較的親しく交流を始めるのは2011年になってからとなる。
東日本大震災の余韻もまだ冷めない2011年3月下旬、東武東上線の東鷲宮駅の鷲宮画廊に来館した。前年に亡くなられたみやわき心太郎氏の追悼展示が開催されていたのだ。自宅を改造した館内の展示を一通り見終わると、館長がお茶を入れてくれた。持参したみやわき氏の同人誌とみやわき氏の追悼文が載った「漫画の手帖」をお渡しし歓談していると、テーブル傍にあった巴先生の単行本が目にとまった。「雪ん子の歌」と「ヨーイドン」であった。
館長に話を聞いてみるとご自身で復刻作業をされているとのことだった。また、復刻したはいいが販売してくれるところを見つけるのに苦労しているとの話も一緒に伺った。あまり大した販売能力はありませんがよろしければご相談くださいと、館長に店の名刺を2枚お渡しした。
1週間ほどして巴先生から店にお電話を頂いた。店で委託販売をして欲しい旨だった。
それから巴先生が復刻した「巴里夫シリーズ」を継続的に店で委託販売するようになった。条件は普段新刊委託を受ける場合の通常である7掛けでの納品。しかし色々とやり取りをしている内にこの7掛けという卸値は巴先生にとってきついものであったのではないかと感じられた。何度か印刷部数と原価率をたずねてみたが、どうも遠慮されているようでついにはっきりとした答えを聞くことが出来なかった。なるべく負担にならないように送本の際は着払いで送ってもらうようにしたのだが、それでも当店で委託販売することが巴先生にメリットがあったのかどうかに関しては未だに疑問を感じているのだ。
同人誌即売会で販売してみてはどうかとも思い立った。そのような売り方であれば、売上金の全てを巴先生にお渡しできる。2011年の5月、コミティア96で、知り合いのサークルに少し本を置かせてもらった。高齢化が進んでいるコミティアだけあって巴先生の懐かしい漫画は売れることは売れるのだが、残念なことに自らサークルを出して出店経費が見合うほどにはならなかった。
復刻自体は巴先生の弟さんが作業をしているとのことで順調にタイトルを増やしていったが、店での委託販売の方は販売能力の不甲斐なさからほぼ固定客のみで数量は伸び悩んでいた。
同人誌即売会での販売は断念していたが、巴先生は若い人が同人マンガを販売する見ているのは好きだったらしく、涼しい時期(先生は暑いのが苦手)にコミティアにお誘いすると楽しそうに来会されていた。
2015年5月の下旬ころ(記憶ちょっと怪しい)、漫画の手帖編集Fさんから巴先生に漫画の手帖用に表紙を依頼したいと相談があった。では、一席設けて依頼しましょうと先生に神保町までご足労いただいて店の近所の中華料理屋で3人で酒宴を行った。ちょうど巴先生のいそじましげじ時代の作品を含む数点の貸本を仕入れたばかりであったので、つまみ代わりに宴席にそれらの貸本を持ち込んだ。巴先生は非常に懐かしがって、貸本時代の貴重な思い出話を伺うことが出来た。
表紙の依頼に関しては快諾いただき、その宴席から2週間もたたない内に速攻でご寄稿頂いた。
このころコミティアよりもMGM2あたり同人誌イベントのほうが巴先生をお誘いするには向いているのではないかと考えた。悪く言えば小規模だけど、良く言えばアットホームなMGM2の方が規模の大きなコミティアよりも居心地も良いのではないか。すでに夏に差し掛かっていたので、暑い時期は避けて秋口辺りのMGM2からどうだろうと編集Fさんと相談した。
2015年10月初旬、弥生美術館で「陸奥A子展」が開催された。巴先生にとってはりぼん時代の旧知の作家で、招待券もあるので一緒に観覧しませんかと巴先生をお誘いしてみた。快諾いただいたんで、ついでに漫画の手帖執筆メンバーの数名も誘って、一緒に鑑賞会のようなものを開催した。
夕方ころに弥生美術館に合流して学芸員の案内で館内を廻った。陸奥A子がりぼんで活躍していた頃は、ちょうど巴先生が新人賞の審査員をしていた頃だ。懐かしそうに見覚えのある原画の前で立ち止まっては、陸奥A子の彩色のセンスの良さなどを語っていた。
観覧が終わり館の入り口の前で他メンバーと合流。根津近辺で宴会を催すことになったが、日曜日の5時ころなので適当な店が予約できずにいた。根津あたりに詳しい三五千波さんが馴染みの店をあたって、ようやく落ち着くことが出来た。
巴先生は大好きなお酒を飲みながら、若い(?)女性漫画描きと楽しく談笑していた。どうやらMGM2辺りの漫画描きとは相性が良さそうであった。
その後、編集FさんとMGM2への具体的参加と巴先生の表紙を飾る次号漫画の手帖へのコラムの寄稿、更には千葉県佐倉市美術館で開催予定の高橋真琴原画展への訪問を画策した。
コラムの寄稿とMGM2への参加は快諾いただいたが、高橋真琴原画展の方は、遠方なのでちょっと遠慮したいと仰った。旧知の高橋真琴氏にはぜひ会いたいが、このところ体調がちょっと思わしくなく長距離の外出は体がしんどいとのことだった。
編集Fさんと巴先生宅から佐倉市までの行程を検討してみたが、どうやっても片道1時間半から2時間はかかってしまう。結局、高橋真琴原画展に関しては断念せざるを得なかった。
11月3日MGM2.10が板橋区大山にて開催された。長時間居るのは大変だろうとお昼過ぎにゆっくりとご来会いただく。古参の漫画家たちが多いので巴先生の名は皆知っている。漫画の話で参加者とも話が咲いた。座るスペースも充分あるので、ゆったりと気持ちよく過ごしていただけたようだ。MGM恒例の終了後の反省会という名の懇親会にもそのまま出席していただこうかと思ったが、高円寺で開催されていた「おおやちき原画展」にも寄りたいとのことだった。
それではと、編集Fさんの車で高円寺に向かった。小さなギャラリーで初日は入場整理券を配るほど混んでいたという話だったが、幸いなことに日曜日の夕方にはゆっくりと観られるような状況だった。
高円寺から電車で帰宅するという巴先生を説得し、編集Fさんの車でご自宅の越谷までお送りすることとなった。道は空いていたので小一時間ほどで到着。ご自宅は街道からちょっと離れた閑静な住宅街であった。
暮れも押し迫った頃、最後の復刻本「はひふへほしのこ」が刊行された。丁度コミケ前だったので、それではコミケで販売しましょうと10冊ほど本を送っていただいた。これで最後の復刻にするつもりだからと各冊に1枚ずつ直筆のイラストも付けていただいた。コミケあたりでどの程度売れるかは判らなかったが、幸いなことにコミケのロートル組が懐かしがって5冊ほどは売れた。
明けて2016年、1月下旬に再びMGM2が開催された。今回は懇親会にも出ていただこうと、お好きな芋焼酎も用意した。帰宅も編集Fさんに車を出していただいて、越谷までお送りした。
2月にコミティア115が開催された。巴先生は参加されなかったが本の方は販売した。数日語、コミティアでの販売状況報告と依頼原稿の状況確認のため電話をすると、体調が悪いのでちょっと検査入院をするよとのことだった。原稿の方は無理しなくても構いませんからと返事をした。
そんなわけで今回の原稿は難しいかもしれないと編集Fさんには伝えたが、なんと締め切りの2月中旬にはきっちりと原稿が到着した。
「思い出あれこれ」第1回というタイトルでペンネームの由来と高橋真琴氏との思い出が書かれていた。予定より少し短めの文章だったが、タイトル兼用のイラストも添えられていた。ただイラストの脇に書かれた「ボツボツ看板降ろすかな」という一文だけがなんとなく気になった。
検査入院が終わるタイミングを見計らって、原稿のお礼がてら電話をしてみた。
「肺がんだったよ。若いころに肺を患った影響で手術するのは難しいらしい。まわりには内緒にして下さい」
高齢者の癌は進行が遅いそうですからと、たいして慰めにもならない言葉で電話を切った。
少しは励みにならないかと以前から考えていたMGM2での巴先生名義での出展を検討し始めた。会場の都合で3月の開催は取りやめで次回MGM2は6月開催になっていた。
巴先生表紙の漫画の手帖71号のイベントでの初売りは5月5日のコミティアからだった。巴先生表紙で意外性もあって好調に売れた。引きづられるように「はひふへほしのこ」も1900円という値段にもかかわらずわりかし好調に売れた。
次の日曜日、お見舞いも兼ねてコミティアの売上をお渡ししに、ご自宅まで編集Fさんとともに訪問した。自宅にベッドを入れ療養するということですでに書斎を片付けを始められていた。食欲がほとんどないんだよと持参したお茶菓子にも手を付けられない様子だった。
次回の原稿は体調がよろしい時にゆるゆると進めてください。片付けで力仕事が必要な際は遠慮なく連絡ください。食事はなるべく頑張って召しあがってください。長居して負担になるといけないのでその日は手短に引き上げた。6月のMGM2に参加していただくことはもはや難しそうだった。
6月に入って復刊ドットコムの印口氏から「5年ひばり組」を復刻したいので巴先生とコンタクトを取りたいと連絡を受けた。なるべく早いほうが良いでしょうと、巴先生に電話を入れた。電話口の先生の声はかなり不鮮明でちょっとショックを受けたが、とりあえず次の日曜日には訪問する約束を取り付けた。印口氏の足がちょっと不調のため編集Fさんに車を出してもらうこととなった。更にむさ苦しい男3人では何なので、お花代わりにうら若い石黒嬢にも同行してもらうことにした。
6月12日、ご自宅には二人の息子さんとお孫さんが丁度在宅していた。巴先生は既に移動用の酸素吸入器をつけていられた。復刊の話は息子さんが同席していたおかげでスムーズに話が進んだ。
先生の食が細いと嘆いておられた奥様に、ゼリー状の病人食のサンプルをお渡しし、先生が気にいられた味がありましたら取り寄せますのでと伝えた。
先生には、ちょうど電子版の準備をしていたみやわき心太郎氏の「漫画熱13話」の画像の一部をお見せした。それは巴先生とみやわき心太郎氏が神保町の喫茶店でお会いするシーンが描かれたいたものだった。先生は非常に懐かしがって、全体を読みたいと仰った。
翌日編集Fさんに手伝っていただいて、「漫画熱13話」の原稿スキャンとプリント出力を行って、すぐに巴先生宅に郵送。
みやわき心太郎「漫画熱13話」より
巴先生宅に訪問してから10日ほど後に奥さまに電話して、サンプルの病人食でお好みの味はあったでしょかと伺う。桃の味のゼリーが気に入ったようだとの事だったので、早速フルーツを中心としたゼリー食1セットをネットで注文し直接配送されるように手配した。
容体の方はあまり芳しい状況ではなかった。コラムの2話目は難しいだろうなと内心考えた。
6月30日、店の郵便受けを開けると巴先生から封書が届いていた。封筒を開けてびっくりした、そこに2話目のコラム原稿が入っていた。手書きの原稿だったがいつもの巴先生の字体とは大きく異なっていた。奥さまの口述筆記だったのだろうか、慌てて電話すると息子さんが出て、原稿は先生の直筆で、すでに半分意識がない状態との事だった。
すぐに編集Fさんに手書き原稿をスキャンして送った。内容は赤塚不二夫氏と森安なおや氏に関することだった。乱れた筆跡は苦しい病床での執筆であったことが推測された。
翌7月1日の朝、巴先生の奥様から電話を頂いた。送った原稿は問題なかったでしょうかとの問い合わせだった。前日の電話を気にされてのようだった。全然問題ありませんよとお答えし、そっと容体を伺うと既に意識がないとの事だった。すぐに校正した原稿をプリントアウトし、ご自宅に郵送した。
その日の晩遅く、巴先生の訃報がホームページ上で告知された。
生前巴先生は葬儀は家族だけで行いたいと仰っておられた。どうしたものかと逡巡していると、翌日になって息子さんから葬儀のご案内を電子メールで頂いた。
7月4日月曜日、お通夜に参列した。式場には巴先生の原画も展示されていた。式の最後に巴先生のお顔も拝見することが出来た。安らかそうなお顔を見て、わたしはなぜか少しだけ安心した。
赤塚不二夫氏、みやわき心太郎氏、桜井昌一氏、辰巳ヨシヒロ氏、森安なおや氏、米沢嘉博氏、先に逝った漫画仲間たちと楽しくやっていると良いな、そんなことを考えた。
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