風薫る新緑の候、皆様方におかれましては如何お過ごしでしょうか。店主は鬱になったり、胃カメラ呑んだり、ピロリ菌駆除したり、確定申告に追われたり、踏んだり蹴ったり転んだりと何かと忙しい日々を過ごしております。もっともこれを書いているのは、まだようやく水温む候の3月なんですけどね。
さていよいよ後編です。
仲村和美「でんでん姫」 初出:講談社週刊モーニング・パーティ増刊号1990年31号から1992年51号
仲村和美です。多分漫画の手帖の読者の9割7分はその存在を知らないと思われます。ここまでマイナーな作家を挙げちゃっていいものかと思うのですが、マイナーに走ることを”店是”とするくだん書房店主としては、1分30秒ほど悩んだ後にいいことにしちゃいました。
それでは店主が仲村和美に関して何か語れるかというと、実は何も語るものがない。デビュー作も知らなければ、「でんでん姫」以外の作品も知らない。紹介しようとしていて随分な話じゃないかと思われるが、実際インターネット上を検索しまくってても全く情報はないし、当時コミックモーニング本誌や増刊号をかかさず読んでいたにもかかわらず「でんでん姫」以外の作品を見かけた記憶が一切ない。そんな訳で(どんな訳だ?)仲村和美「でんでん姫」です。
主人公の冴えないサラリーマン山下君は、ある日アパートの庭で上半身が裸の女の子の姿をしたかたつむりを見かけます(ちなみに下半身の姿は謎です)。最初は単なる幻覚かと思い込んでおりましたが、実は彼女?はかたつむりの精霊”でんでん姫”でした。でんでん姫は時に山下君が丹精込めて育てた花を食い荒らし、時に勝手にまとわりついては勝手にヤキモチを焼く困った存在。少々不思議な能力と中途半端な色気と天然な性格で山下君を振り回します。
まあ本当になんてこと無い人畜無害な作品ですが、店主は大好きな作品でした。実のところ作品内容が云々よりも、これをベストテンに押す店主の趣味と精神構造の方が問題かもしれません。
各話2ページから6ページのショートコミックで、全57話。各号に2,3話ずつ掲載されたので掲載された雑誌の号数と一致しません。単行本は講談社パーティKCのレーベルで刊行はされました。以前は古本屋の片隅によく転がっていたのですが、さすがに最近はみかけません。
残念なことに掲載誌のパーティ増刊号自体が自然消滅みたいな感じで消えてしまったので、この作品もハッキリとしたエンディングもなく終わってしまいました。
仲村和美さん、何処に消えてしまったのでしょうか。誰か知りませんか?
岩館真理子「幾千夜」 初出:集英社週刊マーガレット1983年51号
「センチメンタルリング」 初出:週刊マーガレット1984年4・5合併号
「幾千夜」と「センチメンタルリング」は一応独立した短編の体裁を取っていますが、二つの短編で一つの作品と言えるような内容です。
森下リカコはナイトクラブの歌手。彼女は幼いころの交通事故で両親と弟を亡くし、そして自分も事故以前の記憶を失くしてしまっていた。忘れてしまった頃のことを覚えている筈の髪を長く伸ばし、リカコは亡くなった両親と同じように歌を歌いながら暮らしていた。
最近客席に歌を聞きながらまるで彼女を憎むような眼差しで見つめる男が通ってくる。男は2週間前に彼女が白いドレスで歌っていた為に妻が交通事故で死んだというのだ。もちろん男には、それが自分勝手な言いがかりであることを自覚している。男が本当に憎んでいたのは、歌っている彼女に想いを寄せることにより結果的に妻を死に追いやった自分自身だった。
帰る場所も帰る場所の記憶も持たないリカコは、ある日イギリスの風景写真に郷愁を覚え、ふいに旅に出ることを思いつく。旅立ちの前夜、リカコは失くしてしまった母親の形見のビーズの指輪の代わりにオモチャの指輪を買って欲しいと男にねだるのだった。
行き場のない哀しい男と女が触れ会いそうで微妙にすれ違う物語。岩館真理子は1983年ころから時折こんな感じの微妙に現実感のないシリアスな作品を描いていた(一節によるとこの頃担当編集が変わったらしいが詳細は未確認)。店主はこの微妙に現実感のない岩館真理子作品がとても好きなのである。
ところで此処から先は毎度おなじみのように余談に走るのだけど、この二つの短編が収録された単行本『 わたしが人魚になった日』(集英社マーガレットコミック)の中に「街も星もきみも」(初出:週刊マーガレット1985年4・5合併号)という短編が収録されている。とにかく最高に現実感のない夢のようにフワフワとした感じの作品で、こちらもかなりお気に入りだった。その作品から20年後の集英社『ヤングユー』2005年2月号に「白き夜に青く輝く」という短編が掲載された。それを読んだら「街も星もきみも」の続きだったのでちょっと驚いた。とくに続編だという断りはなく、作中でなんとなくほのめかしているだけではあるが、20年もたって続編を描くというのは作者もよほどこの作品がお気に入りのだろうなと思う。
岩館真理子さんは、2008年小学館『フラワーズ』の「夕暮れバス」以降作品を見かけません。どうしているのでしょうか。寂しい限りです。
小椋冬美「天のテラス」 初出:講談社週刊モーニング・パーティ増刊1990年32号から1991年44号 週刊モーニング1991年40号から1995年31号 不定期連載
正直言って小椋冬美のりぼん時代の作品あまりちゃんと読んでいない。多少読んだものといえば「Mickey」くらいのものである。初期作品辺りは、絵がちょっとバタ臭くて(歳がバレるような形容詞だ)、舞台が日本であっても妙に無国籍っぽくて、なんとなく読まずに通過してしまった(要は食わず嫌いだったのだ)。
小椋冬美は1980年代後半から、集英社『ヤングユー』や講談社『mimi』、『モーニング』辺りでちょっと大人向けの作品を描くようになった。大人向けであっても相変わらずバタ臭くてもっと無国籍なっちゃったんだけど、これが実に何というか逆に良い感じに熟成されたいた。
『ヤングユー』や『mimi』辺りに掲載されたレディス作品も良かったが、特に気に入ったのが『モーニング』に掲載された「天のテラス」だった。
長編ではなくて短編の集まりである。短い作品で8ページ、長い作品で28ページ程度、全部で31話ある。「天のテラス」と統一のタイトルが冠されているが、連作短編のように一貫したテーマも人物も舞台も存在しない、それぞれ完璧に独立した作品である。例えば主役も、道端で女の子を拾う青年だったり、アパートの2階に象が住んでいるのではないかと怯える主婦だったり、若かった頃の自分の容姿を懐かしむ老婦人だったり、10も年下の男からプロポーズされて思い悩むメイドだったり、天使のような女の子に出会うホームレスだったり、夫婦漫才の相方を務めるドジな女芸人だったり、帰ってこない男を待ち続ける食堂の女主人だったり、若い領主に鋭く意見する農家の娘だったりと、時代も場所もてんでバラバラというか時代も場所もまったく不明。共通するのは悪人は出てこない、バッドエンドはない、そしてどれもちょっとだけ心温まるお話だということ。もっとも小椋冬美の作品は一貫してそういうスタイルではあったが。あ、もう一つ大事なことが…。小椋冬美の描く女性はすごく肉感的というか豊満で深い母性を感じさせる点。だから男性が小椋冬美の作品読んでもなんとなく和むのです。
でも小椋冬美さん、21世紀に入ってから新作見なくなってしまいましたがお元気なんでしょうか。
さてこれでようやく10作品紹介終わりました。という訳で(だからどんな訳だ?)次回完結編に続きます(な、なんだってー!)。
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